江戸四大飢饉

概要

 江戸四大飢饉とは、江戸時代に起こった飢饉の中で、被害の大きかった寛永・享保・天明・天保の大飢饉の総称である。
 なおこのうち、享保・天明・天保の3つの飢饉を総称し、「江戸三大飢饉」と言われたりもする。

 ただ江戸時代は寒冷期にあり、飢饉などが多かったと言われ、この他にも飢饉は発生している。このようなこともあり、1600年代には増加していた人口も、1700年代からは低迷し、江戸時代の人口はおおよそ3000万人で推移している。


四大飢饉

名称時期影響
寛永の大飢饉1642年(寛永19年)~1643年(寛永20年)この飢饉により困窮した農民を救うため、1643年(寛永20年)には、田畑永代売買禁止令が出された。
享保の大飢饉1732年(享保17年)米価が高騰し、1733年(享保18年)には江戸で享保の打ちこわしが行われた。
また、瀬戸内海の大三島ではさつまいも栽培により餓死者を免れたことから、米以外の穀物の栽培が推奨されるようになった。
天明の大飢饉1782年(天明2年)~1788年(天明8年)白河藩主・松平定信がこの飢饉に当たっても、餓死者を出さずにこの飢饉を乗り越えたことから、幕府の老中となり、その後の寛政の改革につながっていく。
天保の大飢饉1833年(天保4年)~1839年(天保10年)全国各地で百姓一揆や打ちこわしが起こり、天保騒動(1836年(天保7年))、大塩平八郎の乱(1837年(天保8年))の原因となる。
またその後、水野忠邦の天保の改革による農村振興や倹約令などへと繋がっていく。


この他の飢饉

 江戸時代にはこの他にも、次のような飢饉が発生したと言われている。

  1. 延宝の飢饉(1674年(延宝2年)~1675年(延宝3年))
  2. 天和の飢饉(1682年(天和2年)~1683年(天和3年))
  3. 元禄の飢饉(1691年(元禄4年)~1695年(元禄8年))
  4. 宝暦の飢饉(1753年(宝暦3年)~1757年(宝暦7年))

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